わたしはまことのぶどうの木
ヨハネ 15:1〜17
実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。
しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
「実を結ぶいい枝はなおさら手入れをして一層よい実を実らせるようになるが、実を結ばない枝は農夫が切り取ってしまう。だからあなたがたは実を結ぶようにしなさい。」という教訓ではない。
「取り除く」と訳された原語は「アイロー」
「地面から起こす、持ち上げる、支える」という意味もある。
当時のイスラエルの野生種のぶどうの木)は地面を這うように育っていた。
地面にくっついていると実を結ぶことはできない。
そこで農夫はそれを地面から起こして、持ち上げて育てた。
取り除くのではなく、持ち上げる。
神さまは取り除かれるどころか、持ち上げられる御方。
しかし、それでも実を結ばない枝もある。
その枝は取り除かれる。
剪定する理由
いらない枝を整理し、葉全体に日光が当たるようにする。
効率よく光合成をさせることで、養分がたくさん作られ、糖度の高いぶどうができる。
枝を整理することで、果実がなりすぎるのを防ぐ。
樹を疲れさせずに健康な状態を保ち、寿命を長くすることができる。
枝が混みあうと風通しが悪くなり、病害虫の発生が増えてしまう。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ
つながっているのに実を結ばない枝はないはず。
枝自身は木につながっているかどうかが生命線。
よい枝になろうと努力するのではなく、木にしがみついていることこそが重要。
但し、どうしても地面にへばりついてしまおうとする。
この時、農夫が来て枝を地面から持ち上げてくれる。
つながる
とどまる(メノー)
滞在する、泊まるといった一時的なことではなく、永続的な、一回的な決心に基づく。
神とのより親密な深い交わりを意味する。
決定的な決意によって、継続的な生きた親しいかかわりを持つこと。
つながったり、切れたりではない。
とどまり続ける。つながり続ける。
イエスは神を離れてこの世に来られたが、神につながり続けた
実がなる木の場合にはもっと実がなるように
もっと多くの実をならせようと農夫は枝を磨くのか?
枝を大切に真綿でくるむのか?
農夫は枝を刈り込み、剪定する。
よい枝だから大切に保護するどころか、じょきじょきと刈り込んでしまう。
枝にとって大切にされるどころかひどい仕打ちだがも、っとよい実を結ばせるため。
私たちも枝の端くれ。
イエスさまにつながっているものの、ほとんど地面にはいつくばって伸びている。
このままでは多くの実を結ぶことができない。
それで神さまはこの枝をググッと持ち上げて下さる。
地面に未練がある私たちだが、これをググッと少し持ち上げて下さる。
そしてチョキチョキと剪定される。
自分では無駄ではないと思っている部分であっても、容赦なく切り取って下さる。
神さまの実を結ぶためには余分なものがついてしまってる。
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている
御言葉によって私たちは清くされている。
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