「新しい人を着て」
コロサイ3:5〜17
新しい人を着たなら、古い人を着ることはない
あなたがたは、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている
これが私たちのアイデンティティ
神に選ばれるべくもないこの自分が、神によって選ばれ、
聖なる者と正反対な性質を持つ自分が、聖なる者とされ、
神から愛されようもない自分が、神から愛されている
というこの奇跡、この事実。
しかし、わが内にはこの事実を受け入れようとしない領域がある。
「お前は神になんか選ばれていない。選ばれているのならもっと大きな働きができているはずだ。」
「お前は決して聖なる者になんかなれない。そのことはお前自身が一番よく知っているはずだ。」
「お前は神さまに愛されてなんかいない、愛されているなら、なぜ思い通りの人生にならないのだ。」
そのような声が聞こえてくる。
なぜ自分が選ばれたのか。
当然選ばれるべくしてではなく、このような者が選ばれた。
これほどの奇跡はない。
私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選ばれた。
選ぶという漢字は、己れと己れが共になって進むと書く。
選んだ人と選ばれた人が共になって進むことが選ぶということ。
私たちの人生は神さまが共におられて、神さまと共に歩む人生だということ。
「聖なる者となった」ではなく、「聖なる者とされた」。
即ち、「聖なる者とみなされた」ということ。
聖ならざる者が、イエスキリストの十字架ゆえに、聖なる者とみなされたということ。
これが神の恩寵。
聖という漢字は、耳と口の王と書く。
自分が聞くこと、語ることについては王のように、自分を律するということ。
何を聴き、何を語るのか。
聖書の御言葉を聴き、聖書の御言葉を語る。
愛されているとはどういうことか。
愛という漢字は、心を受けると書く。
愛とは相手の心をまるごと受け入れるということ。
神さまは私たちの心をまるごと受け入れて下さっている。
よいところは好きだけれど、嫌なところは嫌い、これは愛ではなく、好き嫌い。
愛はすべてを受け入れる。
私たちの心は神さまにすべて受け入れられている。
私たちはこの愛をもって人を愛するために、この世に遣わされたのです。
神の愛を素直に受け入れる。
神がどれほど私たちを愛しておられることか。
日々新たにされてとは、現在進行形。
日々新たにされ続ける必要がある。
日々キリストの似姿へ変えられ続けている。
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